発酵や食べ物の消化に活躍し、洗濯洗剤にも利用される「酵素」っていったいなんだろう?
発酵にまつわるあれこれを「科学的」に解説する本記事。とは言っても、難しいことではなく、科学的に、わかりやすく、お伝えしていきます。解説してくれるのは、発酵日和ではおなじみの平松 サリーさん。平松さんは、京都大学農学部で学び、今は食と科学を専門として、著述活動を続けていらっしゃる食・科学ライターです。
今回は酵素について「科学的」に解説します。「酵素」という言葉、聞いたことはあるけどよくわからない……という方は必見です。
平松サリー(科学する料理研究家・ライター)
京都大学農学部卒業、京都大学大学院農学研究科修士課程修了、平成22年度 京都大学総長賞受賞。京都大学農学部で遺伝学やタンパク質工学、バイオ技術を中心に学ぶ。2011年よりライター、科学する料理研究家として本格的に活動を開始。「科学をわかりやすく楽しく、より身近に」をモットーに、執筆や企画・監修など幅広く手がける。著書に『「おいしい」を科学して、レシピにしました。』(サンマーク出版)、『おもしろい! 料理の科学』(講談社)。
発酵食品について読んだり調べたりしていると、しばしば「酵素」という単語が出てきます。私たちの胃や腸ではたらく消化“酵素”や、洗濯に使われる“酵素”系洗剤など、発酵食品や微生物とは一見関係なさそうな話題にも登場する酵素。何となく「便利そう」「役に立ちそう」なイメージがありますが、その正体はいったい何なのでしょうか。
今回の記事では酵素について解説し、発酵食品をはじめ、様々なところで酵素が活用されている事例について紹介します。
生き物が生きていくのに必要不可欠な存在
酵素とはいったい何なのか。科学的には「生き物の体内で生み出される「触媒」である」と説明されます。触媒という言葉は中学校の理科で出てくるので、聞いたことあるぞ、という人も多いかと思います。聞いたことはあるけど、よく覚えていない、という人もいるかもしれませんね。
理科の授業で触媒の話が出てくるのは、過酸化水素水から酸素が発生する反応のところです。薄い過酸化水素水に二酸化マンガンを加えると、過酸化水素が分解して酸素が発生します。この反応では、二酸化マンガンは過酸化水素の分解を助けるだけで変化はせず、過酸化水素だけが形を変えています。
このように、それ自体は変化せずに化学反応の進み方に影響を与える物質を「触媒」といいます。化学反応を山越えに例えてみましょう。Aという場所(過酸化水素)からBという場所(酸素)に向かうには、その間にある高い山を越える必要がありますが、越えるには多くの時間と体力が必要となります。この山を低くして越えやすくしてくれるのが触媒です。触媒があると、そのままではなかなか起こりにくい反応、多くのエネルギーを必要とする反応を、少ないエネルギーで短時間に進めることができます。
さて、その「触媒」として、生き物の中ではたらいているのが「酵素」です。人間も微生物も、あらゆる生き物はその体の中で常に様々な化学反応が起こり、必要な成分が作られ、不要な成分が分解されています。これによって活動するためのエネルギーを手に入れたり、体を構成する部品を作ったりして生命を維持しているのです。これらの反応の多くは本来、高温・高圧などの厳しい条件や長い時間を必要としますが、酵素はそれを体内の穏やかな条件下であっという間に進めてしまいます。多くの酵素はタンパク質でできていて(一部RNAでできた酵素もあります)、その設計図は私たちの遺伝子に記されています。そして、その酵素による化学反応が必要な場所で必要な分だけ作られ、これによって体内の化学反応がコントロールされています。私たち人間も、動物や植物、微生物も、生き物の体の中で起こる化学反応のほとんど全てが、遺伝子の設計図をもとに作られた酵素のはたらきによって進められ、調節されているのです。
酵素については、以下の記事でも解説・紹介しています。
研究者から見た発酵食品の魅力・すごさとは?科学の目で見た発酵食品【第2回】
麦芽の酵素でビールを造る
私たち人類は、自らの体内で作られる酵素によって生きているだけでなく、様々な動植物、そして微生物の作る酵素を利用し、生活を豊かにしてきました。例えば、麦や米などの穀物を水に浸し発芽させたものには、デンプンを糖に分解する酵素「アミラーゼ」が豊富に含まれています。これを利用して造られてきたもののひとつがビールです。
大麦を発芽させた麦芽により、大麦のデンプンを糖に分解し、酵母による発酵でこの糖をアルコールに変換します。古代エジプトではすでに麦芽を利用したビール造りが行われていたと考えられていて、人類は酵素の存在を発見する遥か昔から、知らず知らずのうちに酵素を利用してきたと言えます。麦芽はこの他に、ウイスキーや水飴を造るのにも活用されてきました。
微生物の酵素でお酒を造る
一方、アジアの酒づくりでは古くから微生物の作る酵素が活用されてきました。東アジアや東南アジアの多くの国々では主にクモノスカビやケカビが用いられ、日本では麹菌というカビの仲間を使って、酒づくりが行われてきました。これらのカビは菌体、つまり自分自身の外側に向けて様々な酵素を分泌します。これによって周囲に存在するデンプンやたんぱく質などの大きな分子を分解し、糖やアミノ酸といった小さな分子にすることで、栄養素を菌体内に取り込みやすくしているのです。
清酒づくりではまず、蒸した米に麹菌を生育させます。すると麹菌が分泌した酵素によって、米のデンプンが糖に、タンパク質がペプチドやアミノ酸に分解されます。大麦のビールと同様、分解されてできた糖は酵母の栄養源となり、発酵によってアルコールが作られます。
酵素による分解の恩恵は、アルコールの原料を作り出すことだけではありません。デンプンやタンパク質のような大きな分子はほとんど味がしませんが、分解して糖やアミノ酸などの小さな分子にすることで、甘味やうま味、苦味などの味が生じます。酵母によって利用されずに残った糖は甘味に、アミノ酸やペプチドはうま味や苦味となり、清酒のおいしさの一部となるのです。麹菌の仲間は清酒のほかに焼酎造りや、味噌、醤油の醸造にも活用されています。
麹菌の酵素については以下の記事でも解説しています。
麹と糀 「こうじ」を表す2つの漢字物語〜奥深きこうじの世界に触れてみる
研究者から見た発酵食品の魅力・すごさとは?科学の目で見た発酵食品【第4回】
また、麹菌やその活用については、以下の記事で詳しく解説しています。
食べた物を分解する消化酵素
デンプンを分解する酵素は私たちの身体の中にも存在します。ご飯を口に入れてもぐもぐと噛んでいると、次第に口の中が甘くなってきます。これは、唾液に含まれるアミラーゼという酵素のはたらきによる現象。アミラーゼはデンプンを分解して糖に変えるので、ご飯に豊富なデンプンが糖に変わり甘く感じられるのです。
古代には世界各地で、この唾液のアミラーゼを利用した「口噛み酒」というものが造られていたそう。米などの穀物や木の実を口に入れて噛んだ後、壺に吐き出して置いておくと、唾液のアミラーゼでデンプンが分解されて糖になります。ここに自然界の酵母がはたらいてアルコール発酵が起こり、お酒ができるのです。日本にも縄文後期以降に伝来し、主に神事に利用されていたと考えられています。
唾液のアミラーゼ以外にも、ヒトの消化器官ではタンパク質を分解するプロテアーゼや脂質を分解するリパーゼなどが分泌され、食べたものを栄養として吸収できるよう、小さな分子に分解しています。
ヒト以外の動物もそれぞれの食性にあった消化酵素を持ち、食べたものを分解・吸収しています。この消化酵素を利用して作られてきたのがチーズです。仔ウシや仔ヤギの胃から抽出される「レンネット」は、乳に含まれるカゼインというタンパク質に作用して凝固させるはたらきがあり、凝乳酵素とも呼ばれます。レンネットを乳に加えると、カゼインが凝固してどろっとした白いかたまりとして分離します。これを取り出して固め、熟成させたものがチーズです。
ただし、伝統的なレンネットには、仔ウシや仔ヤギを解体しなければ得られないという難点があります。そのため現在では、微生物に仔ウシの遺伝子を組み込んで作らせた遺伝子組み換えレンネットの利用が主流となっています。
微生物によって広がる酵素の利用
このように人類は、酵素についてよく知らないまま自然界に存在する酵素を活用してきましたが、19世紀に入るとようやく酵素の存在が科学的に明らかになり、その性質や利用方法について研究が進められるようになりました。そして1894年には日本人研究者の高峰譲吉がタカヂアスターゼを発明し、胃腸の消化酵素の働きを補う酵素剤として商品化しました。これは、麹菌を培養したものから抽出した酵素で、世界初の生物系特許として知られています。
微生物による酵素生産は動物や植物に比べて低コストで、気候や立地による制限も少ないため、酵素の低価格で安定した大量生産が可能です。微生物による酵素生産の方法が確立され、発展したことにより様々な分野で酵素の産業利用が広がりました。
例えば、果物からジュースを作る際には、微生物によって生産されたペクチナーゼという酵素が使われています。ペクチンはジャムやゼリーを固めるのに重要な成分ですが、ペクチンを含む果汁はとろみがあるためろ過しにくく、ジュースを作る際には生産量を減らしてしまうマイナス要因になります。ペクチナーゼはこれを分解することで、ジュースをろ過しやすくし、収量を上げるのに役立っています。
また、清涼飲料水にはしばしば果糖とブドウ糖が混ざった「果糖ブドウ糖液糖」という甘味料が使われていますが、これも酵素によって作られています。デンプンはブドウ糖が鎖のように長く繋がってできているので、これを酵素で分解していくと最終的にはブドウ糖のシロップになります。ジャガイモやトウモロコシのデンプンを分解してできたブドウ糖液に、さらにグルコースイソメラーゼという酵素を作用させると、ブドウ糖の一部が果糖という糖に作りかえられます。こうしてできるのが果糖ブドウ糖液糖です。果糖はブドウ糖や、砂糖の主成分であるショ糖よりも甘味が強く、冷やすとさらに甘味が増します。また、ショ糖に比べるとキレのあるさっぱりとした甘さが特徴なので、冷たい飲み物の甘味付けに適しているのです。
酵素が活躍しているのは食品分野だけではありません。洗濯洗剤にも様々な酵素が使われています。タンパク質を分解するプロテアーゼや脂質を分解するリパーゼ、デンプンを分解するアミラーゼなどの酵素は、こびりついた汚れを分解し布から剥がれやすくしてくれます。また、セルラーゼという酵素は、木綿繊維の隙間に入り込んだ汚れを落ちやすくする効果があります。洗剤に用いられる酵素はアルカリ性や低温でもよくはたらくことや、漂白剤などの他の成分によってはたらきが弱められたり失われたりしないなどの条件が求められますが、微生物の利用やタンパク質工学による改良によって、より効果的で安価な洗剤の開発が進みました。
このように酵素は私たちの生命維持に必要なだけでなく、お酒の醸造や食品の加工、洗剤の開発など多くの用途に活用され、生活を豊かに、そして便利にしてきました。現在は、医療や環境保全などの分野でも様々な試みがなされていて、今後も活躍の舞台が広がっていきそうです。
- 参考文献
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- 井上國世 企画立案・編集『初めての酵素化学』(シーエムシー出版)
- 川本伸一 編著『光琳選書9 食品と微生物』(光琳)
- 小泉武夫 編著『発酵食品学』(講談社サイエンティフィク)
- 中川春紫 著『日本の伝統 発酵の科学 微生物が生み出す「旨さ」の秘密』(講談社)
- 藤井建夫 編著『食品微生物学の基礎』(講談社サイエンティフィク)
- ラインハート・レンネバーグ 著、小林達彦 監修、田中 暉夫・奥原 正國 訳『カラー図解 EURO版 バイオテクノロジーの教科書(上)』(講談社)
※記載内容は筆者の個人的な見解であり、特定の商品または発酵食品についての効果効用を保証するものではありません。